カテゴリ:ボスニア( 1 )

戦争と平和

昨日、ドラマ版「火垂るの墓」を観ました。

ドラマの最後で、今現在、戦争が行われている国々の子供達の笑顔を映していました。
私は1997年、内戦後まもないボスニアを一人で旅したことがあります。
その時に戦争について感じたことを以前書いたものです。

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クロアチアのドブロクニクから内戦後間もないボスニアを通って海岸沿いにユーゴスラビアに抜けようとしていた。しかし、車でたった20分の距離ではあるが、海岸沿いのクロアチア、ボスニア間の国境は未だ通れない。それでかなりの遠回りではあるが、内陸部のサラエボまでいけば向こう側にいけるらしいとの情報を得た。

ここ旧ユーゴスラビアは民族間の内戦でいくつかの国々に独立をしたばかりだ。今まで通ってきたクロアチアではセルビア人との紛争の後も生々しくセルビア人の治めるユーゴスラビアの国境を越えるのは不可能に思えた。
しかし、ここまで来るとどうしても新しく誕生したボスニアヘルツェゴビナと言う舌を噛みそうな名前の国を見てみたかった。

美しい海沿いの町ドブロクニクは中世のヨーロッパの町並みを残し、戦前はリゾート地であったらしい。小高い丘に登り町並みを見ていると内戦があったのは嘘のように思えたが、爆破された家の屋根の赤レンガが真新しく戦争で焼けなかった家との対比がよくわかる。

ドブロクニクに何日か滞在した後、サラエボ行きの長距離バスの切符を手に入れた。
いよいよボスニアだ。
バスの車窓から見ると文字通り廃墟だった。
お墓ばかりが目に付く。たまに町があってもゴーストタウン。

そして首都サラエボに着いた。
バスを降りて乗客はばらばらに散っていったが、行く宛てもない私はどこに行けばいいものかと立ち尽くしてしまった。
人は沢山いるがもちろん旅行者はいない。地図も旅行案内所もない。
すれ違う人に聞いても英語は通じなかった。
とりあえず今日泊まるところは確保しなければ。

町は瓦礫の山のようだ。交通手段はないかと見渡すと壊れた小さな市電が走っていた。
車体には銃弾を浴びた後があり、走っているのが不思議なくらいだ。

英語の解る少女を見つけて中心街に行く道を聞く。
どうやらこのおんぼろ市電で100ボスニアマルクでいけるらしい。
しかし両替所もなく私はドイツマルクしか持っていない。
困り果てているとその少女が100ボスニアマルクをくれた。

町の中心オールドタウンはあまり破壊されていないようだ。
しかし、人はどこに住んでいるのだろうか。
よく見ると破壊された瓦礫のアパートに洗濯物が干してある。
瓦礫のような建物に生活の匂いが感じられることにすごく驚いた。
そしてすこしほっとした。

ボスニアに入ってからの町の異様さが今までに見た町とあまりにも違い、戦車が行き交う知らない町に一人でいるのが怖くなってきた。
しかし、このおばけのような建物群にも人が住んでいるのだ。
廃墟に干している洗濯物は生き残った人々の生命力の強さだ。
人はどんな環境におかれても生きていかなくてはいけない。

戦車がやたら目に付く。
英語が聞こえてきた。
国連のアメリカ兵だ。
非番らしく何人かで固まってぶらぶらしている。
とりあえず話しかけてみる。

「すみません、インフォメーション知りませんか?泊まるところを探しているんですが・・・」
「泊まるところ?!こんなところでなにやってるんだ?」
「・・・・・・あの旅行していて・・。」
「旅行?!バケーションならマイアミだろ?!いや、カリブに行ったほうがいい。」

その言葉に周りにいた他のアメリカ兵が大笑いした。
こんなに切迫して聞いているのにアメリカンジョーク!

兵士は口々に、どこがどういう武器で破壊されているか、いかに街が壊滅状態かなどと言っているが、まるで緊張感はない。アメリカ軍のキャンプを設営しているから遊びにおいでと言う。
それはお断りをしてとにかく今日だけでも泊まれるところを探す。

少し歩いていくと、ひどく破壊されたビルや建物の辺りにでた。
有名なホリデーインの辺りだ。
内戦中はこのホリデーインがジャーナリストたちの最後の砦だったらしい。

そして、小さな旅行会社に入り部屋を貸してくれる先を見つけてもらえた。
戦前は何か小さな民宿だったのだろうか。
しかし、壁が半分壊れ建物も半分なかった。まるでドリフの家だ。
窓もなくこの寒いサラエボで暖房器具もない。
部屋にいても寒くて心細かったので、外に出て暖かいものを食べに行く事にした。

両替ができなかったので、ドイツマルクが使えそうなレストランを探し、なんとか食べることができた。
温かいスープを飲んで、暖炉にあたっていると冷えた体も温まり元気がでてきた。

オールドタウン周辺はまるで戦争なんかなかったかのよう。
土産物まで売っている。さっきのアメリカ兵の人たち何か買っていたっけ。
灯りがともり夜になってもこの一角だけに人々が集まり、楽しそうに会話したり、ウインドウショッピングしたりしている。

朝、起きると外は一面の雪景色だった。
窓のない部屋で眠れなかったはすだ。
ここは冬期オリンピックがあったっけなどど考えていた。
ユーゴスラビアに早く行きたくなった。

サラエボは目に見えない国境で二つに分かれていた。
今私がいる国連が行き交っているのは連合軍側で、丘を越えた向こうはセルビア人の町だ。
ユーゴスラビアに行くためのバスはセルビア人街からでている。

旅行会社で手配したタクシーは山の中で止まりここまでしかいけないという。
そしてUターンをしてさっさと帰ってしまった。
向こうのほうに土嚢が見えた。その先に小さな建物や人がちらほらと見える。

今まで親切にしてくれたのはクロアチア人だった。
みんな口をそろえてセルビア人がいかに怖いか、どんな酷い目にあったかと聞かされた。
土嚢のところにいる兵士はセルビア人だ。
緊張する。
そして土嚢を超える。
兵士は何も言わない。

バスターミナルの事務所のようなものを見つけ、ユーゴスラビア行きのバスの切符を買った。
発車時間まで隣の簡易レストランに入る。
入ったとたんに一気に視線が私に集まった。
ここにいる人たちはセルビア人なのだ。
クロアチアからきたアジア人の旅行者は敵になるのだろうか。

そして次の瞬間、髭面の強面のおじさんが片言の英語で話しかけてきた。
「どこからきたんだ?」
「・・・日本です」
かなり緊張する。

しかしそのおじさんの次の言葉にびっくりした。
「コーヒーをおごらせてくれ」
その笑顔に涙が出そうになった。

この人たちはクロアチア人とどこがちがうのだろうか?
少し濃い顔の容貌も話す言葉も、私にはクロアチア人とセルビア人の違いは全くわからない。
なぜ戦争なんかしたのだろう。

数日前、クロアチアで仲良くなった10代の少女に
「戦争前は近所にセルビア人も住んでたでしょ?友達もいたかもしれないし、そういう人にもう会えないのはさみしくない?」
と聞いた事があった。
途端に「会いたくはない」といった少女の憎しみの顔が忘れられない。

時間がきて、ユーゴスラビアへとバスは出発した。
山のてっぺんにきたとき、遠く麓に雪のサラエボの町が見えた。
前の座席の青年が窓越しにサラエボの町を見ている。
彼も以前はサラエボにある学校に通っていたかもしれない。
あのオールドタウンでショッピングや映画に行っていたかもしれない。
今や決して行けないサラエボの町に彼が今度行けるはいつのことだろう。

雪が静かに降っていた。
彼はバスの窓から見えなくなるまでずっと雪のサラエボを見ていた。


1998年9月には、ボスニア・ヘルツェゴビナで2度目の統一選が行われた。しかし、1999年3月、ユーゴスラビア連邦コソボ白治州の紛争をめぐり、NATO軍がユーゴを空爆、再びセルビア人に対する国際的な圧力が強まる。
ユーゴスラビア連邦は2003年2月4日、連邦を解消し、新たな連合国家「セルビア・モンテネグロ」を樹立。これで73年余存続したユーゴスラビアの消滅が確定した。



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by moccasin88 | 2005-11-02 10:32 | ボスニア